《敦煌》(とんこう)
かつては沙州と呼ばれた。四方を砂漠で囲まれたオアシスである。漢の武帝が西域経営のために設けた、武威、張掖、酒泉、敦煌の西域四郡の最西端の砦であった。西域に対する最前線の軍事基地としての役割を担ってきた。
同時に、辺境の地であるだけに、ひとたび中原の漢族の王朝の影響が弱まると、吐蕃、西夏などの異民族の占領するところとなる。幾多の民族の興亡の舞台でもあった。
標高は高く、海抜1700メートル。西には西域に、南は青海からチベットへ。古代よりシルクロードの交易、軍事の要衝であった。それを可能にしていたのは、祁連山に源を発する、党河の流れであった。
<鳴沙山>(めいさざん)
敦煌の町から南へ5キロ。東西40キロ、南北20キロにわたり砂丘が続く。特徴は砂の粒子が細かいこと。その細かい粒子の砂の山々が描く稜線は美しい。日向と日陰の明暗を曲線でクッキリと描き出す。
<月牙泉>(げつがせん)
鳴沙山の砂の山々の間に、半月型の泉がある。その形から「月牙」泉と呼ばれる。周囲は延々と砂漠が続くが、ここの泉の水は涸れたことがないという。大きさは、東西200メートル、南北50メートル。
<莫高窟>(ばっこうくつ)
敦煌市の南東25キロ、鳴沙山の東端に開鑿された石窟群である。鳴沙山の東麓の絶壁に、東西千六百メートルに及ぶ範囲で石窟が造られている。
石窟の中には、極彩色の壁画が描かれ、色鮮やかな彩色が施された塑像を安置する。唐の時代には千を超える石窟が掘られていたと言うが、現在では六百ほどが残されている。敦煌文物研究院によって、壁画や塑像が残る石窟には番号が付けられ管理されているが、その数は492。
壁画は、合わせると四万五千平方メートルに、また、塑像の数は2415体にも及ぶという。
最初に石窟を造ったのは、「大周李懐譲重修莫高窟仏龕碑」によれば、前秦の建元二年(366)、西よりやってきた沙門楽尊が三危山と鳴沙山が相対するところ金色に輝くのを見て、ひとつの石窟を開いたという。現在、その石窟は確認できないが、確実なことは、五世紀前半の北涼時代から、北魏、隋、唐、宋、西夏、元と千年に及び営々と掘られ続けられてきたことである。
近年、久しく人々から忘れ去られていた敦煌が、突如脚光を浴びたのは、1900年。莫高窟で修行をしていた道士・王圓ロクが、偶然にいわゆる「敦煌文書」を発見したことによる。今言う第16窟の壁に割れ目があることを発見し、その壁を壊すと、耳洞と呼ばれる小部屋があった。今言う第17窟である。そこに、床から天井までびっしりと古文書が積まれていて、その数は数万巻におよんだ。
そのニュースを聞き、真っ先にやってきたのがイギリス人のスタインであり、次いでフランス人のペリオであった。スタインが六千巻、ペリオは五千巻の文書を持ち帰ったという。清朝政府が保護に腰を上げたの1909年。残ったものを北京に運んだ。そのあと遅れてきたのが大谷探検隊、アメリカ人のウォーナーと続く。現在、この「敦煌文書」が保存されているのは、「大英博物館」「フランス国立図書館」「国立北京図書館」「龍谷大学」である。
<玉門関址>(ぎょくもんかんあと)
敦煌の西北八十五キロ。漢の時代に開かれた。武帝が西域の経営に乗り出しホータンの玉が中国へ直接はいるようになった。それを皇帝は独占的に管理をし輸入を厳しく取り締まった。そのホータンの玉の入り口にちなみ玉門関と名づけられた。
漢の時代、陽関とともに、西域への起点であった。西域北道(天山北路)へは玉門関を経由し、西域南道へは陽関を経由した。
この遺跡を史書に現れる「玉門関」ではないかと最初に推定をしたのはスタインであった。スタインはこの付近から漢代の木簡を発見している。
「玉門関」で思い出されるのは、李広利と班超。
李広利は前漢時代の将軍。武帝は、大宛国に産する良馬が欲しい。千金の金をもって購おうとするが断られる。そこで李広利に命じ大宛を撃たせ馬を奪おうとする。ところが散々に敗れ敦煌に帰り着いた時には兵力は十分の一か二しか残っていない。李広利は上奏文をたてまつり、今回は道は遠く食糧が足りず敗れました。しばらく軍を解散し、体制を整えもう一度遠征させていただきたい、と伝える。これを聞いた武帝はたいそう怒り、玉門関を閉めさせ、「玉門関のうちに入った兵は即座に斬る」と伝えた。(結局は第二次の派兵で大宛国を撃ち三千頭を越える馬を奪うことになるのだが。)
一方班超は後漢時代の西域経営の英雄。匈奴との戦い、西域の経営に生涯を捧げた男であった。三十六名の部下を率いて楼蘭に使いしたときたまたま匈奴の使者と鉢合わせになった。相手の数は百三十有余人。班超はひるむことなく、匈奴の使者を急襲し、楼蘭が匈奴になびくのを防いだ。この時班超が部下を励ますために言った言葉が、「虎穴にいらずんば虎児を得ず」である。その後、西域に身を置くこと三十一年、戦いに明け暮れ、疎勒を倒し、亀慈を撃ち、焉耆を攻め、ついに西域五十ヵ国を束ねることに成功。その班超であるが、晩年、彼はこう上書する。
「臣、敢えて酒泉に到るを望まず、但だ生きて玉門関に入らん
ことを願うのみ」。酒泉に至らずとも、せめて、玉門関には入りたい。
その玉門関である。
<陽関址>(ようかんあと)
敦煌の南西六十五キロ。漢の時代に設けられた関である。玉門関の陽(南)に位置するので陽関という。玉門関が西域北道への起点であったのに対して、陽関は西域南道への起点であった。
しかし、唐代には玉門関は、敦煌の東に移された。そのため、唐以降は、西域への道はすべて陽関経由になり重要度を増すことになった。
今残っているのは、烽火台の址で、陽関そのものは沙漠の中に埋もれている。
唐代の詩人・王維の詩は有名である。
渭城の朝雨軽塵をうるおし
客舎青々柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西の方,陽関を出ずれば故人無からん
三蔵法師玄奘も、インドからの帰途にこの関を通っている。
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《嘉峪関》(かよくかん)
万里の長城の西端。東の端は河北省の山海関。その間6000キロに及ぶ。
北の合黎山、南の祁連山に挟まれた峡谷になっており、西からの攻撃を防ぐには最適の場所である。関が設けられたのは明代の14世紀、モンゴル族の侵攻を防ぐ目的で馮勝将軍によって建てられた。
嘉峪山の麓にあるで嘉峪関と名付けられた。
山海関が「天下第一関」と呼ばれるのに対し、嘉峪関は「天下雄関」と呼ばれる。
高台に築かれた関城から南北に城壁が延び、南北の祁連山、合黎山も連なる。関城は台形をなし、周囲733メートル、面積3万3500平方メートル。周囲は高さ11メートルの城壁で囲まれている。
関城は内城、甕城、羅城、外城からなる。内城は関城の中枢で西の城壁は166メートル、東の城壁は154メートル、南北は160メートル。台形の形をしている。東西に門があり、東門を「光華門」、西門を「柔遠門」という。それぞれの門に楼城が建つ。
その東西の門を守るための城が甕城である。内城と甕城を北と南から挟む城壁が羅城。南と北の羅城から東へ延び、やがて交わりなかに広場を形作るの城壁が外城である。城の中に城があり、城の外に城があり、内城、甕城、羅城が相互に防御しあうように造られている。
西門の甕城の門楼にひとつの煉瓦が置かれている。言い伝えがあり、嘉峪関を造るときに工匠が極めて正確に必要な煉瓦の数を計算し、工事が終わったときに残った煉瓦はひとつだけであった。その煉瓦がこれである、と。
関城の正門は、西向きに建っており、楼上に「嘉峪関」と書かれている。
<魏晋壁画墓>(ぎしんへきがぽ)
嘉峪関の東北20キロ、新城郷のゴピ灘にある。周囲10キロ以内に魏晋時代(220〜419)の墓が千以上ある。
1972年に8墓を発掘。そのうち6墓が壁画墓で、合計600の壁画が見つかった。多くはひとつの煉瓦にひとつの絵が描かれたものであるが、なかには大型の壁画もある。煉瓦の大きさは、通常約34センチX約17センチが一般的。
墓の構造は二室墓か三室墓で、墓門、前室、左右耳室、(中室)、後室というような構成になっている。
絵の題材としては、墓の主人の生前の生活に材を採ったものや、農業、牧畜、養蚕、戦争、狩猟、、林園、伎楽、牛馬など。
一号墓の墓主と思われる画像の傍らに「段清」とある。『晋書』段灼
伝に段氏の記述があり、「代々土着の姓」とあり豪族と考えられる。壁画は墓主の豪華な生活を写したものが大半を占めるが、一方では、庶民の生活を描いたものも200幅余りを含み、農業、養蚕、牧蓄などの生産活動を
題材にしたものも多くある。色彩は赤褐色と赤色が中心で、色の使い方は単純であるが、それだけに強烈な印象を残す。敦煌・莫高窟の初期の壁画を連想させるものも少なくない。
<黒山石刻画像>(こくざんせっこくがぞう)
嘉峪関市の西北20キロの峡谷にある。黒山の四道鼓形溝と石関峡の絶壁に、合わせて153の石刻が1キロにわたって彫られている。黒紫色の岩壁に浅いレリーフで描かれ、技法は稚拙であるが、独特の魅力を持った描かれ方をしている。
絵の内容は馬、牛、羊、ラクダ、虎、イヌなどの動物、また、人が騎射、狩猟、舞踊などを行う様子も描かれている。全体的にみて、遊牧・狩猟生活が描かれているのに対して、農耕の様子が描かれていない。古いものは、新石器時代の遊牧民族によるものと考えられる。
殷の時代のチベット系の民族説、大月氏説、匈奴説などあるがまだ定説はない。
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《安西》(あんせい)
敦煌の東北110キロ。河西回廊を蘭州方面から西に向かうと、敦煌に着くその少し手前に当たる。強風の吹くところとして知られる。
唐代には瓜州と呼ばれていた。その名のとおり白蘭瓜、黄河密などの瓜を多く産する。
<鎖陽城址>(さようじょうあと)
安西県の県城東南約40キロゴピ灘にある。唐の時代、薛将軍の率いる軍隊が。この城に立て籠もったとき、食糧が尽きたが、軍民が城内に生えていた鎖陽(漢方薬の原料となる植物)を食べて生き延びたという言い伝えから鎖陽城と呼ばれるようになった。
南北470メートル、東西430メートル。現在の高さは約10メートル。西と北の両面に門を設けてある。
城壁の四つの角に土で築いた円形の建物の趾がある。物見台の跡とも考えられている。城内からは開元通宝や唐代の瓦や樽などが出土している。城壁に登って南方を望むとゴピ灘がはてしなくひろがり、その先には白雪をいただく那連山がそびえる。
<楡林窟>(ゆりんくつ)
安西県の県城南方約70キロ。楡林河の渓谷の両岸に開削された石窟群。万仏峡ともいう。
開削年代についての文字の記録はないが、中心柱のある洞翁窟の形式と第25窟の前室の天王壁にある「光化三年(900)」という題記から、唐代の開削と考えられる。
現存する窟は、河を挟み東崖に30窟、西崖に11窟、あわせて41窟である。総面積1000u余りの壁画と100体余りの彩色塑像が残っている。
第25窟の西方浄土・弥勒浄土の図は構図、色彩、描く線の美しさで唐代壁画の逸品とされる。
また、五代・宋代初期・西夏代・元代の壁画には従来あまり見られなかった人々の現実生活を反映する耕作、収穫、嫁入り、宴会、将棋、舞楽などを題材に採ったものもある。
全体を通じて、壁画の形式、題材、様式、題記などから、莫高窟との密接な関係が読み取れ、敦煌の西南30キロにある西千仏洞と併せ、「敦煌三大石窟「というような呼び方をされる。
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